大永七年(1527)より受け継がれる
禅の古刹

 大永七年(1527)より受け継がれる禅の古刹

 普
 済
 寺

     
  由
  来
  と
    歴
  史

     
  由
  来
  と
    歴
  史

 普
 済
 寺


 二十年ぜん われをして 聞かしむ
二 十 年 前 使 我 聞  ○   ○   ・   ・   ○   ○   ◉

 よじがたき 霊 石  ちせんの くま
難 攀 霊 石 池 泉 隈  ・   ・   ・   ○   ○   ・   ◉


 小 涇 流 水して 天 鼓(てんこ)を打ち
小 涇 流 水 打 天 鼓  ○   ・   ○   ○   ○   ・   ・
                     二   一
庭境(ていきょう)の祥氛(しょうふん)快哉(かいさい)を喜ぶ
庭 境 祥 氛 喜 快 哉  ○   ○   ・   ・   ・   ○   ◉
                      二   一

 しょうがい ろくじゅうの しゅじょうえん
生 涯 六 十 衆 生 縁  ○   ○   ・   ・   ○   ○   ◉

 ふさいじ のてい ぶじのぜん
普 済 寺 庭 無 事 禅  ・   ・   ・   ○   ○   ・   ◉


 みたびの はるめぐりて ほっかいにあまねく
三 度 春 巡 遍 法 界  ○   ・   ○   ○   ○   ・   ・
                     二   一
 こうばい てきれきとして どうぜんにさく
紅 梅 的 歴 咲 堂 前  ○   ○   ・   ・   ・   ○   ◉
                      二   一

 しょうがい ろくじゅうの しゅじょうえん
生 涯 六 十 衆 生 縁  ○   ○   ・   ・   ○   ○   ◉

 ふさいじ のてい ぶじのぜん
普 済 寺 庭 無 事 禅  ・   ・   ・   ○   ○   ・   ◉

 みたびの はるめぐりて ほっかいにあまねく
三 度 春 巡 遍 法 界  ○   ・   ○   ○   ○   ・   ・
                     二   一
 こうばい てきれきとして どうぜんにさく
紅 梅 的 歴 咲 堂 前  ○   ○   ・   ・   ・   ○   ◉
                      二   一

 しょうがい ろくじゅうの しゅじょうえん
生 涯 六 十 衆 生 縁  ○   ○   ・   ・   ○   ○   ◉

 ふさいじ のてい ぶじのぜん
普 済 寺 庭 無 事 禅  ・   ・   ・   ○   ○   ・   ◉

 みたびの はるめぐりて ほっかいにあまねく
三 度 春 巡 遍 法 界  ○   ・   ○   ○   ○   ・   ・
                     二   一
 こうばい てきれきとして どうぜんにさく
紅 梅 的 歴 咲 堂 前  ○   ○   ・   ・   ・   ○   ◉
                      二   一

普済寺年表

普済寺年表

□ 有磯周齋の天井絵

□有磯周齋の天井絵

□ 有磯周齋の天井絵

 普済寺の由縁
 創立大永七年(一五二七)、開山は耕雲時八世 固剛宗厳こごうそうごん和尚。
開基、鮎川清長あゆかわきよなが公。 鮎川氏は信濃守しなののかみと称した土豪で、
のち上杉家の家臣となる。
大葉沢城は鮎川氏の居城であり、
城跡は県指定文化財として保護され、
特に五十条に及ぶ畝形阻塞うねがたそさい群は圧巻である。
現在の本堂は安政三年(一八五六)七月五日の火災後に
再建されたもので、
また天井の水墨画は有磯周齋ありいそしゅうさい作と推定される。
急峻な山の斜面に造られた回遊式庭園は、
作庭家、遠藤太一氏により
三十三世現住職である角一覚隆かくいちかくりゅう住職代に整備された。
             
普済寺の由縁

 創立大永七年(一五二七)、開山は耕雲時八世 固剛宗厳こごうそうごん和尚。
開基、鮎川清長あゆかわきよなが公。 鮎川氏は信濃守しなののかみと称した土豪で、
のち上杉家の家臣となる。 大葉沢城は鮎川氏の居城であり、
城跡は県指定文化財として保護され、
特に五十条に及ぶ畝形阻塞うねがたそさい群は圧巻である。
現在の本堂は安政三年(一八五六)
七月五日の火災後再建 されたもので、
また天井の水墨画は有磯周齋ありいそしゅうさい作と推定される。
急峻な山の斜面に造られた回遊式庭園は、
作庭家、遠藤太一氏により
三十三世現住職である角一覚隆かくいちかくりゅう住職代に整備された。

             
普済寺の由縁


 創立大永七年(一五二七)、開山は耕雲時八世 固剛宗厳こごうそうごん和尚。
開基、鮎川清長あゆかわきよなが公。 鮎川氏は信濃守しなののかみと称した土豪で、
のち上杉家の家臣となる。 大葉沢城は鮎川氏の居城であり、
城跡は県指定文化財として保護され、
特に五十条に及ぶ畝形阻塞うねがたそさい群は圧巻である。

現在の本堂は安政三年(一八五六)に再建されたもので、
また天井の水墨画は有磯周齋ありいそしゅうさい作と推定される。

急峻な山の斜面に造られた回遊式庭園は、
作庭家、遠藤太一氏により
三十三世現住職である角一覚隆かくいちかくりゅう住職代に整備された。

□大葉澤城趾と普済寺

□大葉澤城趾と普済寺

□大葉澤城趾と普済寺

普済寺を開基された鮎川氏の居城趾であり、新潟県指定の全国的にも珍しい畝形阻塞が残る指定文化財です。

大葉沢城址について            

how about Obasawa-jo Castle Ruins

普済寺を開基された鮎川氏の居城趾であり、新潟県指定の全国的にも珍しい畝形阻塞が残る指定文化財です。

 
新潟県指定史跡         

 大葉澤城跡
 
 大葉澤城の概要

大葉沢集落の南に接する丘陵(標高70〜90メートル)
にある城跡で、戦国時代(400〜500年前)、
本庄氏ほんじょうし色部氏いろべし とならび 阿賀北の強豪(揚北衆あがきたしゅう)として
活躍した鮎川氏の本拠と伝えられています。
城域は、西端の雷神社いかづちじんじゃを祀る宮山から、 東に続く
普済寺南裏の寺山にかけて、東西約700メートル、
南北約200メートルの丘陵全体にわたっています 。
城跡には大小の曲輪 (くるわ)、切崖(きりぎし)、尾根
を切断した縦堀、畝形阻塞(うねがたそさい)など、
徹底的な防御を固め、『全山これ要塞』というにふさ
わしい、当時の緊張感が伝わってくる城跡です。

 
新潟県指定史跡         
 大葉澤城跡
 大葉澤城の概要

大葉沢集落の南に接する丘陵(標高70〜90メートル)
にある城跡で、戦国時代(400〜500年前)、
本庄氏ほんじょうし色部氏いろべし とならび 阿賀北の強豪(揚北衆あがきたしゅう)として
活躍した鮎川氏の本拠と伝えられています。

 

城域は、西端の雷神社いかづちじんじゃを祀る宮山から、 東に続く
普済寺南裏の寺山にかけて、東西約700メートル、
南北約200メートルの丘陵全体にわたっています 。
城跡には大小の曲輪 (くるわ)、切崖(きりぎし)、尾根
を切断した縦堀、畝形阻塞(うねがたそさい)など、
徹底的な防御を固め、『全山これ要塞』というに
ふさわしい、当時の緊張感が伝わってくる城跡です。

 
新潟県指定史跡         
 大葉澤城跡
 大葉澤城の概要

大葉沢集落の南に接する丘陵(標高70〜90メートル)
にある城跡で、戦国時代(400〜500年前)、
本庄氏ほんじょうし色部氏いろべし とならび 阿賀北の強豪(揚北衆あがきたしゅう)として
活躍した鮎川氏の本拠と伝えられています。
城域は、西端の雷神社いかづちじんじゃを祀る宮山から、 東に続く
普済寺南裏の寺山にかけて、東西約700メートル、
南北約200メートルの丘陵全体にわたっています 。
城跡には大小の曲輪 (くるわ)、切崖(きりぎし)、尾根
を切断した縦堀、畝形阻塞(うねがたそさい)など、
徹底的な防御を固め、『全山これ要塞』というにふさ
わしい、当時の緊張感が伝わってくる城跡です。

 
大葉澤城跡|新潟県指定史跡
 
大葉澤城の概要


大葉沢集落の南に接する丘陵(標高70〜90メートル)
にある城跡で、戦国時代(400〜500年前)、
本庄氏ほんじょうし色部氏いろべし とならび 阿賀北の強豪(揚北衆あがきたしゅう)として
活躍した鮎川氏の本拠と伝えられています。
城域は、西端の雷神社いかづちじんじゃを祀る宮山から、 東に続く
普済寺南裏の寺山にかけて、東西約700メートル、
南北約200メートルの丘陵全体にわたっています 。
城跡には大小の曲輪 (くるわ)、切崖(きりぎし)、尾根
を切断した縦堀、畝形阻塞(うねがたそさい)など、
徹底的な防御を固め、『全山これ要塞』というに
ふさわしい、当時の緊張感が伝わってくる城跡です。

 
        

 
 畝形阻塞うねがたそさいとは

大葉澤城跡の南面には畝形阻塞(うねがたそさい) と
呼ばれる畝の高さ3メートル、 間隔6メートル、
長さ15メートル程の土塁と 堀を交互に畝状に
並列させた遺構があり、その総数は 50本以上
と、これほどまとまった畝形阻塞群は 全国的にも
珍しいものです。これらは、緩やかな 斜面に築か
れていて、連続堅堀とは異なるもので、 城に攻め
入ってくる敵の横移動の阻止を目的としています。
つまり、敵は一列縦隊になって進むしかなく、
前面の尾根上から狙撃することが容易になります。
これら畝形阻塞群は、本庄氏の居城である
本庄城(現村上城) の方向に作られていて、先に
ふれた本庄氏との争いの中で 築かれた遺構であった
と考えられます。

 
        

 
 畝形阻塞うねがたそさいとは

大葉澤城跡の南面には畝形阻塞(うねがたそさい) と
呼ばれる畝の高さ3メートル、 間隔6メートル、
長さ15メートル程の土塁と 堀を交互に畝状に
並列させた遺構があり、その総数は 50本以上
と、これほどまとまった畝形阻塞群は 全国的にも
珍しいものです。これらは、緩やかな 斜面に築か
れていて、連続堅堀とは異なるもので、 城に攻め
入ってくる敵の横移動の阻止を目的としています。


  つまり、敵は一列縦隊になって進むしかなく、
前面の尾根上から狙撃することが容易になります。
これら畝形阻塞群は、本庄氏の居城である
本庄城(現村上城) の方向に作られていて、先に
ふれた本庄氏との争いの中で 築かれた遺構であった
と考えられます。

畝形阻塞うねがたそさいとは

大葉澤城跡の南面には畝形阻塞(うねがたそさい) と
呼ばれる畝の高さ3メートル、 間隔6メートル、
長さ15メートル程の土塁と 堀を交互に畝状に
並列させた遺構があり、その総数は 50本以上
と、これほどまとまった畝形阻塞群は 全国的にも
珍しいものです。
これらは、緩やかな 斜面に築かれていて、
連続堅堀とは異なるもので、 城に攻め入ってくる
敵の横移動の阻止を目的としています。
つまり、敵は一列縦隊になって進むしかなく、
前面の尾根上から狙撃することが容易になります。
これら畝形阻塞群は、本庄氏の居城である
本庄城(現村上城) の方向に作られていて、先に
ふれた本庄氏との争いの中で 築かれた遺構であった
と考えられます。

*)大葉沢城跡保存会 

 鮎川清長公の有志で集まった大葉沢城跡保存会のメンバーが、
現在、大葉沢城址を維持・管理をしています。

*)大葉沢城跡保存会 

 鮎川清長公の有志で集まった大葉沢城跡保存会のメンバーが、
現在、大葉沢城址を維持・管理をしています。

*)大葉沢城跡保存会

鮎川清長公の有志で集まった大葉沢城跡保存会のメンバーが、現在、大葉沢城址を維持・管理をしています。

□鮎川清長公の郷

□鮎川清長公の郷

ayukawa

戦国時代に村上地方の有力な土豪で、後に上杉謙信公に仕え活躍された武将です。

鮎川清長侯について  

how about marquis Kiyonaga Ayukawa

戦国時代に村上地方の有力な土豪で、後に上杉謙信公に仕え活躍された武将です。

鮎川清長侯について               

how about marquis Kiyonaga Ayukawa

戦国時代に村上地方の有力な土豪で、後に上杉謙信公に仕え活躍された武将です。

□有磯周齋の天井絵

普済寺の頭石あたまいし


近在に古くから伝わる話に、
普済寺の頭石なるものがある。
住職の遷化せんげ(禅僧が亡くなること)が近づくと
山より丸い石が出てくる。

頭石の大小は住職の徳に依ると云われ、
滅後に墓石となる。
その頭石に触れば邪気を払い、
剛力を得る御利益があると云われている。
普済寺の頭石あたまいし


近在に古くから伝わる話に、
普済寺の頭石なるものがある。
住職の遷化せんげ(禅僧が亡くなること)が近づくと
山より丸い石が出てくる。

頭石の大小は住職の徳に依ると云われ、
滅後に墓石となる。
その頭石に触れば邪気を払い、
剛力を得る御利益があると云われている。

□普済寺の頭石

曹洞宗 大葉山 普済寺
〒958-0253 新潟県村上市大場沢1847
TEL : 0254-72-1974

Copyright © Soto-zen Fusai-ji. All Rights Reserved.

曹洞宗 大葉山 普済寺
〒958-0253 新潟県村上市大場沢1847
TEL : 0254-72-1974

Copyright © Soto-zen Fusai-ji. All Rights Reserved.

曹洞宗 大葉山 普済寺
〒958-0253 新潟県村上市大場沢1847
TEL : 0254-72-1974

Copyright © Soto-zen Fusai-ji. All Rights Reserved.