1月19日 雪のない一月です 首の捻挫はソフト首輪と痛み止めとでジョジョに快復に向かっていると実感しながらチョットした文章を書いてました。

一月十九日 

雪のない一月です
首の捻挫はソフト首輪と痛み止めとでジョジョに快復に向かっていると実感しながらチョットした文章を書いてました。

臨済宗大徳寺派の管長の任にもあった故盛永宗興老大師がすでに三十年前に書かれた「一体主義と個別主義」と名うった論説を読んだことがある。大意は「西洋キリスト教世界においては個人個人は神(ゴッド)と契約し たとえ親子兄弟姉妹の血縁関係であっても完全に個人として独立して別の存在であるとの認識が確立している社会である」「東洋的思想である日本においては親や先祖という縦の関係においても兄弟などの血縁は勿論 地域とか職場まして天地自然との関係においても一体であるという一体観 一体主義で成り立った社会であった」と延べられ その一体主義であった日本の形が大きく崩れて訳の分からない個別主義 自由気儘な個人主義社会になってしまったと慷慨としての文章であったと記憶している。  
又、別の形で識得したことであるがキリスト教社会では産まれた子供に「洗礼式」を行ない二、三才になると「献児式」といって子供を神に献(ささげ)しかる後に神から授かった子供として愛育して就学期になれば学校教育の中で宗教学 キリスト教学が授業され神様と個人との関係が構築される。14才になると「堅信式」という今後キリスト教徒としてカソリックなのかプロテスタントの何派に属するのか はたまた他宗教へ転宗するのか無宗教なのか決断を迫られる大きな儀式があり キリスト教と決めれば日本の成人式のように祝福され大人としてワインを飲むことが許される。又、国家の一員として宗教税(消費税より高額)を支払う義務も課せられ(宗教税により結婚式も葬式は無料)このような政教一致の社会が欧米のキリスト教諸国の実態であることを私達日本人は知っているのであろうか。
今、個別主義と一体主義の優劣を言っているのではないが 現代日本の「無縁社会」といわれる現状に対して何か違うと思う人はそれでも未だ多く居るのでは無いかと思う。
NHKの朝のテレビ小説「スカーレット」での昨年の秋頃の放送の中で主人公の働いている会社の社長が急死する筋書きの中で「故人の遺志で葬式は身内だけで」との展開で実際に葬儀の場面すらなく次への話題に移っていった。昭和三十年代の地方の会社の社長の葬儀がどんな理由があろうとも小規模てあろうはずもなく時代考証はどうなっているのかと私には不思議に思えて仕方なかった。
しかし多数の視聴者には何の違和感もなく受け入れられる。それが実は大きな現代日本の現状であり問題なのではなかろうか。
又、昨年十一月ニ十九日に101歳で亡くなられた元首相中曽根康弘氏の生前のVTRの中で「内政でも外交でも縁ですよ。縁が大切であった。」と言っておられたのが印象的であった しかし葬儀は近親者のみで営むと中曽根弘文氏から発表があり大いに驚いた。葬儀にのみ拘泥している訳では無いが近親者の死への対応は時代の鏡であると思う時 時代は良くも悪くも大きく変わったと言わざるを得ない。今後日本人はどこへ向かって行こうとしているのか 現在色々な意味で飽和状態にあり そして腐敗が始まっているとしか思えない日本は今後確実に起こるであろう気象変動や直下型地震などを受けて始めてカタルシス(精神の浄化)がなされ再生の道へと歩み出すのであろうか それでは既に遅いのだと危惧している所である。