3月7日 法侖さんが先週 今週と宮城に行くとは聞いていました。先輩の尼僧さんのお寺での様子をアップしておりますのでシェアいたします。 今年は東日本大震災の十三回忌を迎えます。 2月、3月と石巻市にある先輩のお寺さんへお手伝いに行かせて頂きました。 先輩のお寺は、津波により74名の児童と10名の教職員が亡くなられた大川小学校のすぐ近くにあります。 お寺では2月からずっと週末は十三回忌の合同供養法要が続いています。 12年前のあの日、私も先輩もまだ愛知専門尼僧堂に安居中でした。その日は3時から授業があった為、2時半から早めの行茶(みんなで3時のお茶を頂く)で全員が同じ部屋にいました。名古屋でもかなりの揺れに一同騒然。 自分たちの部屋に戻ると、宮城県出身の後輩がボイスレコーダーのラジオを付けて耳に当てました。「宮城だ!」とその子が言って、ラジオから「あと○分後(3時くらい)に6メートルの津波が到達します」と聞こえてきました。 6メートルの津波も想像が出来ないし、津波の怖さも分からなかったが、とんでもないことが起きていることをおぼろげながら理解しました。実際は6メートルどころではなく、被害は甚大でした。 当時、尼僧堂では宮城県や東北出身の修行僧が多く、テレビも携帯もない僧堂で皆じっと身内の安否を心配していました。 あの重苦しい雰囲気、得体の知れない恐怖感は忘れられません。 先輩は、出身は他県であり、お師匠様のお寺が宮城にありました。しかし、その年に送行(僧堂を卒業すること)が決まっていた先輩はそのまま宮城のお寺に入ることとなり、右も左もわからない土地で、壮絶な混乱と悲しみの只中に身を投じていかれました。 今回の十三回忌合同供養法要で、先輩が遺族の皆さんに話された言葉はどれも印象的でした。その人が本当に言ってほしい言葉を掛けられるのは、同じようにこの地で皆さんに寄り添い向き合ってきたからこそなんだと思います。 「一歩でも半歩でも、ときに後退しながら、ときに全く立ち上がれずにうずくまる日もありながらの、今日この日です。」 悲しみも苦しみもたしかに過ごして来た日々があっての今。 心の優しい先輩は、今ある命に感謝しよう、などとは言いません。十二年間よくがんばってきたと、どうか自分を褒めてあげてください、と。 悔しさ、悲しさ、やりきれなさを抱えて、必死の思いで一日一日を積み重ね、今日まで生きてきた、そのことがどんなに大変なことなのか、どんなに凄いことなのか、言葉で言い表せるはずもなく、お互いにただそれだけで通じるのです。

三月七日 

法侖さんが先週 今週と宮城に行くとは聞いていました。
先輩の尼僧さんのお寺での様子をアップしておりますのでシェアいたします。
 
 
今年は東日本大震災の十三回忌を迎えます。
2月、3月と石巻市にある先輩のお寺さんへお手伝いに行かせて頂きました。
先輩のお寺は、津波により74名の児童と10名の教職員が亡くなられた大川小学校のすぐ近くにあります。
お寺では2月からずっと週末は十三回忌の合同供養法要が続いています。
12年前のあの日、私も先輩もまだ愛知専門尼僧堂に安居中でした。その日は3時から授業があった為、2時半から早めの行茶(みんなで3時のお茶を頂く)で全員が同じ部屋にいました。名古屋でもかなりの揺れに一同騒然。
自分たちの部屋に戻ると、宮城県出身の後輩がボイスレコーダーのラジオを付けて耳に当てました。「宮城だ!」とその子が言って、ラジオから「あと○分後(3時くらい)に6メートルの津波が到達します」と聞こえてきました。
6メートルの津波も想像が出来ないし、津波の怖さも分からなかったが、とんでもないことが起きていることをおぼろげながら理解しました。実際は6メートルどころではなく、被害は甚大でした。
当時、尼僧堂では宮城県や東北出身の修行僧が多く、テレビも携帯もない僧堂で皆じっと身内の安否を心配していました。
あの重苦しい雰囲気、得体の知れない恐怖感は忘れられません。
先輩は、出身は他県であり、お師匠様のお寺が宮城にありました。しかし、その年に送行(僧堂を卒業すること)が決まっていた先輩はそのまま宮城のお寺に入ることとなり、右も左もわからない土地で、壮絶な混乱と悲しみの只中に身を投じていかれました。
今回の十三回忌合同供養法要で、先輩が遺族の皆さんに話された言葉はどれも印象的でした。その人が本当に言ってほしい言葉を掛けられるのは、同じようにこの地で皆さんに寄り添い向き合ってきたからこそなんだと思います。
「一歩でも半歩でも、ときに後退しながら、ときに全く立ち上がれずにうずくまる日もありながらの、今日この日です。」
悲しみも苦しみもたしかに過ごして来た日々があっての今。
心の優しい先輩は、今ある命に感謝しよう、などとは言いません。十二年間よくがんばってきたと、どうか自分を褒めてあげてください、と。
悔しさ、悲しさ、やりきれなさを抱えて、必死の思いで一日一日を積み重ね、今日まで生きてきた、そのことがどんなに大変なことなのか、どんなに凄いことなのか、言葉で言い表せるはずもなく、お互いにただそれだけで通じるのです。

三月七日 

法侖さんが先週 今週と宮城に行くとは聞いていました。
先輩の尼僧さんのお寺での様子をアップしておりますのでシェアいたします。
 
今年は東日本大震災の十三回忌を迎えます。
2月、3月と石巻市にある先輩のお寺さんへお手伝いに行かせて頂きました。
先輩のお寺は、津波により74名の児童と10名の教職員が亡くなられた大川小学校のすぐ近くにあります。
お寺では2月からずっと週末は十三回忌の合同供養法要が続いています。
12年前のあの日、私も先輩もまだ愛知専門尼僧堂に安居中でした。その日は3時から授業があった為、2時半から早めの行茶(みんなで3時のお茶を頂く)で全員が同じ部屋にいました。名古屋でもかなりの揺れに一同騒然。
自分たちの部屋に戻ると、宮城県出身の後輩がボイスレコーダーのラジオを付けて耳に当てました。「宮城だ!」とその子が言って、ラジオから「あと○分後(3時くらい)に6メートルの津波が到達します」と聞こえてきました。
6メートルの津波も想像が出来ないし、津波の怖さも分からなかったが、とんでもないことが起きていることをおぼろげながら理解しました。実際は6メートルどころではなく、被害は甚大でした。
当時、尼僧堂では宮城県や東北出身の修行僧が多く、テレビも携帯もない僧堂で皆じっと身内の安否を心配していました。
あの重苦しい雰囲気、得体の知れない恐怖感は忘れられません。
先輩は、出身は他県であり、お師匠様のお寺が宮城にありました。しかし、その年に送行(僧堂を卒業すること)が決まっていた先輩はそのまま宮城のお寺に入ることとなり、右も左もわからない土地で、壮絶な混乱と悲しみの只中に身を投じていかれました。
今回の十三回忌合同供養法要で、先輩が遺族の皆さんに話された言葉はどれも印象的でした。その人が本当に言ってほしい言葉を掛けられるのは、同じようにこの地で皆さんに寄り添い向き合ってきたからこそなんだと思います。
「一歩でも半歩でも、ときに後退しながら、ときに全く立ち上がれずにうずくまる日もありながらの、今日この日です。」
悲しみも苦しみもたしかに過ごして来た日々があっての今。
心の優しい先輩は、今ある命に感謝しよう、などとは言いません。十二年間よくがんばってきたと、どうか自分を褒めてあげてください、と。
悔しさ、悲しさ、やりきれなさを抱えて、必死の思いで一日一日を積み重ね、今日まで生きてきた、そのことがどんなに大変なことなのか、どんなに凄いことなのか、言葉で言い表せるはずもなく、お互いにただそれだけで通じるのです。

三月七日 

法侖さんが先週 今週と宮城に行くとは聞いていました。
先輩の尼僧さんのお寺での様子をアップしておりますのでシェアいたします。
 
 
今年は東日本大震災の十三回忌を迎えます。
2月、3月と石巻市にある先輩のお寺さんへお手伝いに行かせて頂きました。
先輩のお寺は、津波により74名の児童と10名の教職員が亡くなられた大川小学校のすぐ近くにあります。
お寺では2月からずっと週末は十三回忌の合同供養法要が続いています。
12年前のあの日、私も先輩もまだ愛知専門尼僧堂に安居中でした。その日は3時から授業があった為、2時半から早めの行茶(みんなで3時のお茶を頂く)で全員が同じ部屋にいました。名古屋でもかなりの揺れに一同騒然。
自分たちの部屋に戻ると、宮城県出身の後輩がボイスレコーダーのラジオを付けて耳に当てました。「宮城だ!」とその子が言って、ラジオから「あと○分後(3時くらい)に6メートルの津波が到達します」と聞こえてきました。
6メートルの津波も想像が出来ないし、津波の怖さも分からなかったが、とんでもないことが起きていることをおぼろげながら理解しました。実際は6メートルどころではなく、被害は甚大でした。
当時、尼僧堂では宮城県や東北出身の修行僧が多く、テレビも携帯もない僧堂で皆じっと身内の安否を心配していました。
あの重苦しい雰囲気、得体の知れない恐怖感は忘れられません。
先輩は、出身は他県であり、お師匠様のお寺が宮城にありました。しかし、その年に送行(僧堂を卒業すること)が決まっていた先輩はそのまま宮城のお寺に入ることとなり、右も左もわからない土地で、壮絶な混乱と悲しみの只中に身を投じていかれました。
今回の十三回忌合同供養法要で、先輩が遺族の皆さんに話された言葉はどれも印象的でした。その人が本当に言ってほしい言葉を掛けられるのは、同じようにこの地で皆さんに寄り添い向き合ってきたからこそなんだと思います。
「一歩でも半歩でも、ときに後退しながら、ときに全く立ち上がれずにうずくまる日もありながらの、今日この日です。」
悲しみも苦しみもたしかに過ごして来た日々があっての今。
心の優しい先輩は、今ある命に感謝しよう、などとは言いません。十二年間よくがんばってきたと、どうか自分を褒めてあげてください、と。
悔しさ、悲しさ、やりきれなさを抱えて、必死の思いで一日一日を積み重ね、今日まで生きてきた、そのことがどんなに大変なことなのか、どんなに凄いことなのか、言葉で言い表せるはずもなく、お互いにただそれだけで通じるのです。