1. は じ め に
平成 29年度師家養成所の年間報告として、各会場での研修内容と自身の参究テーマについてまとめる。
2. 平成二十九年度研修会場並びに研修内容
第一回 5/1〜19 於 曹洞宗宗務庁 会場移動 5/19〜6/10 於 大本山總持寺
研修提唱(従容録) 講評 鈴木包ー主任講師
粛藤芳寛副主任講師 (坐禅用心記)
志保見道元講師 (光明蔵三昧)
伝光会摂心 池田魯参老師
宗教・禅を大学などの教育機関で体系的に学んだことのない筆者にとって、宗務庁での集中講義はとても有意義な内容であった。講師を務めてくださった教化センターの先生方の、自身の研究に対する熱量も高く、参学の刺激となった。
会場を移して、本山僧堂總持寺では従容録の研修提唱と養成所講師陣の提唱、また現駒澤大学総長池田 魯參老師の提唱に参じた。筆者は、本山僧堂永平寺の安居経験はあったが、總持寺はその風に触れる機会も少なかったため、お袈裟のつけ方から法堂進退、日常の生活のすべてが新しい発見であった。
研修提唱では、自身で初めて従容録に参じた。文字を追うことは知識欲を刺激し、喜びを感じた。しかし、ことばを尋ね、かたりを逐う解行は、仏道修行の仕方を知るだけでよいとは瑞應僧堂元西堂橋本恵光 老師のお示しである。従容録参究のために参考とした、橋本恵光老師の「普勧坐禅義の話」にて出会った言葉である。よく肝に銘じなければいけない。 鈴木主任講師の講評は、時間の都合で短縮されたことが残念であった。
斎藤副主任講師の提唱は、自由自在でかつ綿密でありました。このような提唱を目標としたい。
志保見講師は、淡々とした中にもキラリとした問いかけがあり、惹きつけられる提唱でした。
池田老師の提唱は、初めてお聞きしましたが、著書で触れる雰囲気と違い、とても活発な人柄が伝わり、また学の深さを体感しました。總持寺の伝光会は、永平寺の眼蔵会と併せて毎年聴講できるとよい。
第二回 10/24〜11/12 於 大本山總持寺祖院
高橋信善講師 (正法眼蔵三百則)
寿松木宏毅講師 (三物秘弁)
角一覚隆講師 (実践詩偶漢詩)
祖院監院 鈴木永一老師 (榮山清規)
祖院単頭 大橋紀宏老師 (正法眼蔵全機)
約 20日間におよぶ祖院の生活では、監院鈴木老師をはじめ諸役寮、また大衆各位にたいへんなご負担をいただきました。また暁天朝課、托鉢、銀杏作務を大衆とともに修行できたこと、寝食を共にできたことに感謝の念でいっぱいです。そして、他専門僧堂の役寮がどのような役割分担で勤務しているのか、またその様態を知ることができ、貴重な経験となりました。
高橋講師の真字三百則を素読する講義(老師は提唱といわず講義といった)は、漢文に親しむ、祖録を原文のまま読む力を自然に養う有効な方法であると感じた。
寿松木講師の三物秘弁は宗門の系譜意識を確固たるものとする根幹である。宗門僧侶として自身の法系などを護持することは当然であるが、指導者として伝法式の習熟、また切り紙資料などの幅広い知識も併せ持つ必要性を感じた。講師老師には、ご自身がお持ちの切り紙資料やその他関連資料などのご紹介もいただきたい。
角一講師の漢詩講座は、僧侶としての基本的な素養である漢詩について懇切丁寧に講義していただきました。また所員が実際に作詩したものを研修日程中に添削解説していただけたことは、学習意欲の向上、身につく研修として非常に有効である。今後は漢詩だけでなく、疏の作り方なども講説いただきたい。
第三回 11/30〜12/9 於 大本山總持寺 臘八摂心
本山後堂 前川睦生老師 (正法眼蔵身心学道)
本山単頭 勝田浩之老師 (永平大清規弁道法)
筆者が現在所属している瑞應寺専門僧堂の摂心と比較すると、差定はゆったりとしていた。また、日中に大衆の随喜が少なかったのは、公務などの影響によると推察する。公務の名のもとに大衆が労働力として扱われているように感じるのは、筆者が安居中からいだいている感覚である。また、筆者は現在、瑞應寺専門僧堂にて指導的立場の配役をいただいているが、筆者自身が大衆をこのように扱っていると思うこともあり、よくよく注意しなければいけない。指導者は学人を預かり、接化する義務を果たすとともに、僧堂運営と弁道修行の均整をしっかり図らなければいけない。
また、第三回研修は臘八摂心の随喜で、あったが、本来であれば、各所員が所属の僧堂または堂長推薦を受けている僧堂の摂心に随喜するべきと思う。筆者の要望として、臘八摂心、そして涅槃摂心中の養成所の開設は避けていただきたい。
第四回 2/1〜3/1 於 正法寺
自由提唱 (大智禅師十二時法語)
大塚雄参講師 (改訂仏祖正伝禅戒抄)
正法寺茶所入り口に「忙中閑有り」と墨書された木札がある。この言葉は、故安岡正篤氏の六中観の一句として広く知られている。安岡氏は解説に「ただの閑は退屈でしかなく、ただの忙は心を滅ぼすばかり である。真の閑は忙中にある」と注を示している。日常にふっと一息入れるというよりも、もっと積極的な強い意志を感じた。
筆者は、僧侶の生活は正にこの積極的な姿勢が大切であると考える。専門僧堂の生活は忙しい。また現在は、宗門全体で安居者が減少し、修行僧はみな公務に追われている。このような生活にあっては、何が修行なのかと悩まずにはいられない。しかし、安居修行の行住坐臥、一挙手一投足を自身の一大事と頂いて精進したいと思うばかりである。但し、指導者は、安居者が安心して修行できる環境を整えることに、 責務を負うべきである。このことは第三回項にも述べたとおりである。
盛田堂頭老師はご自身の目指すべきところとして、 「どなたでもいつでも参禅できる場」の創出を掲げ られた。このすがたは、僧俗和合の拠り所としての寺が持つ本来あるべきかたちを示しているように思う。
曹洞宗門の専門僧堂とどのように平行して実現するのか、応援したい。
3. 参究テーマの確認
筆者の参究テーマは「僧堂の生活と信仰のかたち(知事睛規を参究の一助として)」であり、主には修行僧の現実的な生活に関心がある。その為、知事睛規からこの生活を窺おうと考えているのだが、その前に 道元禅師当時の時間感覚をしっかりと臍落ちさせたいと考え、本年度研修第四回の正法寺での自由提唱課題は、大智禅師の十二時法語を取りあげた。
本報告書では、大智禅師「十二時法語」から時間についての考察をまとめた。特に、十二時法語の辰の時・粥了調経の「辰の時いまだ世間も少し暗くば」の項について参究した。つまり、辰の時は現在の時刻では、午前 7時から 9時である。午前 7時といえば日の出を過ぎて、もう明るくなっているように思うのは筆者だけではないだろう
はじめに、時分法についての予備知識として、下記の4項目を参照されたい。
① 十二時とは、現在の二十四時間のこと
・時間とは、①ある時刻と他の時刻との聞の長さ。ある長さを持つ時。(デジタル大辞泉)
・時刻とは、①時の流れにおける、ある瞬間。連続する時間の中のある一点。(デジタル大辞泉)
・区分について、時刻の表現として、目に見える形で存在する最小の単位は日であり、また、日の出・日の入である。それより小さな分割は人為的なものであり、どう分割するかによって様々な時法が生まれる ことになる。
ただし極圏では白夜などがあり、日の出・日の入りもない場合がある。
・等分方法について、現在では世界的に統一され十二進記数法によって「一日は二十四時間」・「一時間は 六十分」・「一分は六十秒」としている。
② 暦史
西洋では、古代には日の出と日の入りの間をそれぞれ 12等分する不定時法が用いられており、季節にって長さが異なっていた。後に一日を 24等分する定時法に改められた。パピロニア人やエジプト人は日の出、アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしていた。定時法が採用され、さらに時計が発達してからは、夜半(太陽の南中の対極)を一日の始まりとし、南中を 12時、その以前を午前、以後を午後としてそれぞれを 12等分 (0〜12時)する現在の時法となった。より精密な機械式時計の発達とともに、 13世紀にさらに細かな分割である分(ふん)と秒(びょう)が作られた。
また中国では、古代には一日を 100等分して 1つの分割を「刻」としていたが、漢代に、一日を 12等分 して、夜半から十二支を順に振って子の刻・丑の刻・・・・とする時辰が生まれた。それぞれの分割は 「刻」 といい、 100分割の刻と区別するために「辰刻 」 (しんこく)ともいう。
一方、日本では、中国の一 日を 12等分する時法や、 100等分する時法が導入された。当初は一日を 12 等分する定時法で、室町時代ごろから日の出と日の入または夜明けと日暮れの聞をそれぞれ 6等分する不定時法が用いられるようになった。天文や暦法で使う時法は一貫して定時法だった。江戸時代には、その不定時法に表示を合わせた和時計も作られた。
日の出と日の入は地軸が傾いている地球では毎日少しずつ変化し、また、地軸が 4.1万年の周期で約 21.5 度から 24.5度の間で変化(ミランコビッチ・サイクル)しているため、不定時法による時刻も仙台藩(現・ 宮城県等)と薩摩藩(現・鹿児島県等)のように離れた土地でも異なり、また、同じ太陽暦の月日の同じ土地であっても室町時代と明治時代では微妙に異なることになる。地軸が 23.4度である現在の日本において札幌と東京との日の出時刻を比べると、夏至では札幌 (3:55)が東京 (4:25)より早く、冬至では札幌 (7:02) が 東 京 (6:47) より遅い
ただし、現実的な運用として昼と夜の境を毎日変更するのではなく、二十四節気ごと、すなわち 15日に 一度くらい、明六ツと暮六ツの時刻を変える習慣になっていた。
③ 9で表す12等分法
中国の陰陽の考え方では 9を特別な数として扱い、もっとも縁起の良い数と考えられていた。このことから 、 昼 を 9 、 以 降 一 刻 ご と に 9 を 2 倍 (9 x 2 = 18) 、 3 倍 (9 x 3 = 27) 、 4 倍 (9 x 4 = 36) … と 増 や し て いる。ただし、この数だけ鐘を鳴らそうとすると最大で 54回も鳴らすことになるため、十の桁を省略した。 昼と夜で同じ数があるので、これらを区別して右の表のように呼んだ。しかし、江戸時代以前の人々の生活は夜明けから日暮れまでが中心だったことから、昼間の時刻という前提で日常会話では「昼」や「朝」 は省略されていることが多かった。ただし、六つだけは明け方なのか夕暮れなのかわからないため「明六つ」、「暮六つ」と言い分けた。
④ 文化に見る時刻表現
太陽が南中するころが午の刻だったことから、南中時刻を「午の正刻」と呼んだ。これが現代でも昼の12 時 ち ょ う ど を 表 す 「 正 午 」の 語 源 と な っ て い る 。「 午 前」 「 午 後 」 は そ の 前 後 の 時 間 と い う こ と で あ る 。 午後 2時から 3時ごろに仕事の手を休めてとる休憩時に軽食をとる習慣が江戸時代から始まった。この時間がおおよそ昼八つ、つまり「八つ時(やつどき)」であり、午後 3時ごろに食べる間食を指す「おやつ」という言葉が生まれた。現代では「おやつ」は間食全般のことを指し、時刻には左右されない言葉になっている。
ここで、十二時法語が示された時期と、この法語が熊本県菊池市の聖護寺においての生活を示したもの として、大智禅師在世中の日の出時刻を算出した。
瑞應寺発行の「大智禅師 十二時法語・仮名法語 楢崎一光講述録」大智禅師略年表から、延元元年 9 月 14日 (建武 3年 9月 14日)、大智禅師四十七歳の頃、明峰素哲より仮名法語を授かるとある。この時、グレゴリオ暦 1336年 10月 19日にあたる。
そこで、グレゴリオ暦 2017年 10月の菊池市の日の出時刻を算出すると、日の出 05:54、南中時刻 11:30、日の入り 17:05 となった。おおよそ延元元年 9月(グレゴリオ暦 1336年 10月)の日の出はだいたい午前 6時ころとなりそうだ。
では、十二時法語が対象としている臘月について同様に考察する。今ここに延元元年 12月 8日(釈尊成道の日)の日の 出時刻を算出する。
はじめに、延元元年 12月 8日はグレゴリオ暦 1337年 1月 18日となる。そこで、グレゴリオ暦 2018年の菊池市の日の出時刻を見ると、日の出 07:18、南中時刻 12:27、日の入り 17:35 となった。 以上のように、十二時法語中に示される辰の時は、正刻を午前 8時とすると、日の出 07:18後 50分程度で あり、「辰の時いまだ世間も少し暗くば云々」の記述と整合するようだ。
今回の辰の時考のような疑問は、一見すると橋本老師が示す仏道修行の仕方から外れるようである。しかし、筆者は、当時の時間感覚や生活環境を十分に把握することで 、祖録の中に描かれている世界を自分自身の問題としてより身近に感じることが出来るようになると思っている。
このような理由から、筆者は祖録の提唱の際に、語句の説明だけでなく、仏祖の生活環境について深く考察を重ねながら参究し、また伝える努力をしたいと考えている。
4. ま と め
平成 29年度師家養成所のカリキュラムは、無事に履修でき、内容も概ね満足している。さらに課題研修および自己研修の成果発表の場をもっとカリキュラムに加えていただけると、自身の実践経験としておおいに得るものがあると考える。
5. 要 望
カリキュラムに関しての要望は、本文中に明記した。以下は「師家養成所」という名称についての要望である。
師家養成所は、曹洞宗師家師家養成所細則第二条に示されるように、「僧堂に勤務する者の識見を向上させること」が目的である。しかし、「師家養成所」 という名称からは、そのものずばり「師家を養成する」という誤った認識を、宗門内だけでなく他宗派の人々にもおおいに与え得る。これは所員個人にとっても、また宗門にとっても、与える印象が悪くなることはあっても良くなることはない。ぜひ執行部にてご検討いただき、「師家養成所」の名称を変更されることを望みます。